私が陶芸で作品を作る理由

 私は、陶芸で作品を作っています。陶芸と聞くと、おそらく多くの人が食器や、東洋の国々、土器などを想像するのではないでしょうか。私の作品は普通の器の形をしていませんが、陶芸を選んだのには理由があります。私が、自分の考えを表現するためには陶芸でなければならない必然性を感じているからです。
長い歴史の中で職人や陶芸作家は、器の外側の部分(粘土で出来た部分の外側)がどれくらいユニークなのか、綺麗なのかに意識を向けてきました。しかし、私は視点を変えて陶器の外側ばかりではなく、内側にある目には見えない本体の部分に意識を向けようと考えました。
陶芸の起源は色々な説があると思いますが、陶芸の歴史は2万年以上前に遡るといわれています。陶器ができたのは、人間が火を使うようになった事が大きな原因の一つだと考えられます。人間は他の動物とは違い、調理をするようになりました。火を使い、肉を焼いたりするようになったのです。火を使ううちに、火が風などで吹き消されないよう竈(かまど)を使うようになり、その竈(かまど)を作っていた土が、火で焼かれたことにより、水をかけても元の土ではない他の物質に変化したことに気づきました。そして、その変化を利用して簡単な器を作り始めたのが陶器の始まりだと言われています。 
一般的に、陶器を見る時には粘土で出来ている部分を想像します。しかし、本当は内側の空間を必要として作られたものです。煮炊きをしたり、食べ物をいれる空間です。ですから、陶器の本体は内側の空間ということになります。内側に意識を向けた結果、私の作品は少し変わった形になりました。これらの作品は、形はそれぞれ違いますが、全て陶器の内側の空間を作る意図で作られています。それは内側を粘土で形作っているわけではありません。正確には内側の空間と外側の境界線を形作っています。これは、外側に意識を向けて作っていた陶器も同様です。しかし、外側を作っていた場合では自分は境界線を作っているんだという意識は無いかもしれません。
境界線を作るということは、人間が大昔からしてきたことです。人間は言葉を持つようになってから、身の回りの物や動きや様子などをそれによって表現するために実際には終わりがなかったり、独立して存在し得ないものに境界線を付けてきました。例えば、物ですが、山はどこからが山なのかという明確な境界線がありません。机の上のペンは見た目は1つの塊のように見えますが、バラバラにした後は、同じ物だったはずなのにペンとは言いません。「歩く」という動詞についてですが、私たちは歩きますが、主語になっている私たちを抜かして歩くという動作だけが独立して存在するという状況はありえません。だから、万物にははっきりした境界線は存在しないと考えられるのです。言葉を持つことは境界線を作らなければいけないことと同意になります。言葉を持っているのは、今のところ人間だけと言われています。”Art”には「人口」という意味もありますが、私はアートとは人間だから作れたことだと考えており、まさしく、この境界線を作るという作業は最も人間らしい行動の一つだと考えています。
では、なぜ陶芸で作るのでしょうか。内側の空間と外側についての話をしましたが、陶器以外にも、容器の素材として使われているものは世の中にたくさんあります。金属や木など、今ではプラスチックなどの石油製品、日々多くの物質が実用の素材として使われ始めています。空間である本体をつくるのであれば、他の素材を使ってもいいはずです。
陶器は時代と共に幅広く多様なものに使用されるようになってきました。ただの食器を作る素材としてだけではなく、彫刻、壁を飾るタイル、錆びない刃物、人口の歯、など、分野を越えて使用されています。科学的に研究され、陶器の利点を生かして私たちの生活を便利にする一因となりました。
 ところが、美術としての陶芸は進歩が乏しい状況であると私は考えています。現代陶芸では壷や皿などを作ることからの脱却のために、彫刻やインスタレーションのような作品を作りだしていますが、なぜ、わざわざ陶器で作るのかという理論が曖昧になっています。それには陶芸であるという必然性が欠けているからです。ただ、珍しい作品を作れば新しい陶芸と言われ、理論もない抜け殻のような状態になっているように思います。どのような作風であっても陶芸でなければ表現できないという必然性を持つ事が、陶芸の条件だと私は考えます。そこで私は自分が陶芸で作品を作る必然性について説明します。
 まず、「人間は自然と共に生きている」という私の考え方を表現するのに陶芸はとても適していると考えるからです。私の作品は「私が粘土を形作る行為」と「素材の起こす現象」が半分ずつ合わさって出来ています。日本人の自然観では、「人間は自然と共に生きている」という考え方が昔からあります。それは、私の生き方にも大きな影響を与えています。
 粘土が引き起こす現象をみると、なぜか懐かしい気持ちになります。まるで、山の中、海の中、砂漠の中など、地球上のさまざまな場所の中にいるような気持ちにさせられます。触れてみればひんやりとしていて、地面に触れているように感じます。私は、森や川などがが美しいと感じるように、陶芸の表情を美しいと感じます。それはなぜでしょうか。「陶芸」とは、地球が行ってきた火山活動などの再現ともいえるからかもしれません。現在でも、陶芸で使われている原料の大部分は自然の鉱物から出来ています。これらを混ぜて高温で熱します。そして固めることで石のようなものを人工的に作り出しているのです。自分の作品を生物が誕生する以前から続いてきた自然の現象に委ねるのです。
次に、陶芸特有の「素材が生み出す美しさ、自然の現象を作品に取り入れる」という考えが私が陶芸を選ぶもう一つの理由です。陶芸をする上で、「自然のなりゆきに任せる、素材に任せる」という独特の考え方があります。この考え方では、全てを人間がコントロールしようとするのではなく、私たちの意志と同様、素材の特性・自然の成り行きも尊重します。
例えば、粘土はひび割れるものですから、それを無理にひび割れないようにしなくても良いのです。物質が生み出した自然の割れ目の中に私たちは美しさを見つけることが出来ます。粘土はざらざらですから、無理につるつるにする必要もないのです。そのざらつきの中に愛着を見つけることが出来ます。粘土をつなぎ合わせれば、つなぎ目の線や手の跡が残ります。ですが、消す必要はないのです。その跡が美しいのです。
陶器の特性上、窯で焼いた後、作者はもうその作品に手を加えることも、元の粘土に戻すことも出来ません。絵を描くように書き足したり、金属のように溶かしてまた金属に戻したり出来ないのです。最後は作品の完成を炎に任せなければいけないのです。しかし、そのおかげで全てを人間の力で作り上げたものとは違う美しさを持つようになります。

以上のように、陶芸で作ることで、私は、境界線を作るという人間らしさを表現しながら、自然と共に生きる人間らしさも表現できるのです。私にとって陶芸は、文中で述べた様に「私たち」と「歩く」が独立して存在しえないといったように、切っても切り離せないものなのです。


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